2016/04/03

木村聡『昭和歌謡 替え歌70選』インタビュー

この度、弊社から刊行されることとなった『昭和歌謡替え歌70選』
著者木村聡さんのことをご存じの方も多いかと思います。同様に「なぜ、あの木村聡さんが替え歌を?」と疑問に思った方も多いかも知れません。この企画が持ち上がったとき、弊社編集も同様でした。今回は、赤線研究の第一人者である木村聡さんが替え歌に取り組むこととなった経緯を窺いました。


──木村さんといえば「赤線の人」という印象なんですけど、なぜ今、「昭和歌謡」で、しかも「替え歌」なのか、そのあたりを教えて下さい。
 昔から歌謡曲は得意技というか得意なジャンルだったんですよ。単に好きというだけでなく、編集者として歌謡曲に関する単行本を企画したこともあります。1983年に発売された『ザ・シングル盤』という本では、その頃ブームになっていた「廃盤ブーム」に合わせてシングル盤のジャケットを数百枚見せつつ、やはりブームになっていた歌謡曲ミニコミ誌の論客たちに文章を書いてもらいました。かなりヒットして増刷もされたんですよ。

──そもそも耳慣れない言葉なのですが、歌謡曲の「論客」というジャンルの方がいたのですか?
 大衆娯楽と考えられていた「流行歌」を評論の対象として捉えた、とでもいうのでしょうか。歌手だけではなく作詞家や作曲家について論じたり、資料を丁寧に集めたり、要するにクラシックやジャズ、ロックの世界では普通に行われていたことを歌謡曲で行う人たちが、その頃になって出てきたというわけです。『ザ・シングル盤』を監修していただいた『REMENBER』というミニコミ誌がその代表なんですが、歌謡曲評論の始祖といえるのはなんといっても「近田春夫」で、ミニコミ誌の人たちも相当影響を受けていたはずです。

──近田春夫は今でも『週刊文春』で「考えるヒット」というJポップや歌謡曲に関する連載を続けていますよね。
 息が長いですよねえ。何しろ1970年代の後半から同じことを続けているわけですから。私も「近田春夫のオールナイトニッポン」(深夜放送)の時代からのファンで、その語り口にはだいぶ影響を受けました。

──草分けともいえる近田春夫は歌謡曲というものをどのように論じていたんですか?
 自分の感性や生理を大事にしてかなり自由に論じていました。文芸評論でいったら「考えるヒント」を著した小林秀雄の「印象批評」のような感じというか。それに加えて都会育ちのせいか真面目なものや重たいものが苦手で、反対にキッチュなものや軽いものを好むという屈折したところがありました。「和洋折衷や、和風なキッチュさを大切にしたい」なんてこともよく言っていましたしね。アイドルからムードコーラスまで、ジャンルを問わず人工的でまがい物的なものを愛していたように思います。そういう意味では、後に続いたミニコミ誌よりはずっと軽かったですね。本職はミュージシャン兼作曲家なんですけど。

──なるほど、聴いて当時を懐かしむだけではなく、研究者的な情熱を燃やしている人たちがいるわけですね。ちょっと強引かもしれませんが、木村さんが当時さほど注目されていなかった「赤線」を取材対象としたことに通じるものがあるんじゃないですか?
 あまり手が付けられていないジャンルを見つけて、学者ではない個人が情熱を傾けるという点では、たしかに共通するところがあると思います。いわゆる「隙間狙い」というやつですかね。

──木村さんの年代的に古い歌謡曲もよくご存知ですよね?
 まあ、私ももうじき還暦ですから。物心付いたのが五歳として、昭和三十六、七年ごろからは、街に流れている歌を耳にしたり、テレビの歌謡番組を家族と一緒に見たりして、ヒット曲だったらだいたい聞いていたわけです。特に「御三家」の橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦のことはよく覚えています。それから、伊東ゆかり、小川知子、いしだあゆみ、奥村チヨ、黛ジュンといった女性歌手が活躍する時代がやってきて、そうしているうちに加山雄三というスーパースターが出現。さらにはグループ・サウンズの大流行を経て、こんどはアイドル歌手の全盛期ですよね。私は「新御三家」の郷ひろみ、野口五郎、西条秀樹と同級なんですよ。女性アイドルでは麻丘めぐみ、浅田美代子、アグネス・チャンもたしか同級でした。それから大学生の頃になるとこんどはキャンディーズにピンク・レディーですから、今考えると私の世代は昭和歌謡の黄金期と重なっていたことになります。替え歌を作るにはもってこいの世代といえるでしょうね。

──「替え歌」についてですが、本書のあとがきには、「替え歌は作詞のトレーニング用だった」とありますが。
 フリーライターという職業は仕事がこなくなったらもうおしまい、いつ失業してもおかしくない商売なんで、そうなる前に作詞家になって印税で暮らしてやろうと本気で考えていた時期があったんです。「氷雨」を作詞作曲した「とまりれん」という人は、それ一曲で何十年も暮らしているという話を聞いたものでね。それでコツコツと詞を書きためていたんですが、気晴らしに替え歌を作ってみると詞を作るよりは簡単だし、韻を踏んだり一番から三番までの展開を考えたり、格好のトレーニングになることがわかったんです。作った替え歌はカラオケで歌えますしね(笑い)。

──替え歌というと「春歌」のイメージが強いのですが、やはりそういう内容のものが多いのですか(笑い)。
 たしかに春歌のイメージがありますよねえ。でもそれはあえて避けました。人間性を疑われかねないので(笑い)。エロっぽいものや品のないものはやらないという不文律を設けたんです。基本は駄ジャレなんですけど、メロディーだけ拝借してそれに全く別の詞を乗せるというタイプの替え歌が多いです。たとえば「いつでも夢を」を、漫画家蛭子能収さんのテーマソングに作り替えた「エビスヨシカズ」なんていう替え歌もあります。「有楽町で逢いましょう」は「優勝なんて無理でしょう」に替えて、相撲界をテーマにした歌に作り替えてみました。あとは少々辛口というか、社会批評めいた内容のものもいくつかあります。そうやって作っているうちに、替え歌は表現の手段、表現のツールとしてなかなか使えることがわかってきたんですよ。庶民の立場で日常の機微を表現したり、世の中の矛盾を指摘したり、そういう意味では川柳に近い性格を持っているような気がします。

──今回の『昭和歌謡替え歌70選』では、替え歌のほかに、元歌にしたヒット曲の解説も書かれていますよね。
 本の右側のページが替え歌、左側が元歌にしたヒット曲の解説という構成です。左側のページを通して読むと、「豆知識」を通して昭和歌謡の全体像がおぼろげに浮かび上がってくるのではと考えています。合わせて、ヒット曲が流れていた時代に私自身がどんなことを考えていたのか、回想に耽ったりもしています。

──作詞家を目指していた頃書きためられたという詞には曲が付けられ、CDにまとめられています。作曲なさったのは現在の奥様とうかがっていますが。
 頑張ってたくさん作曲してくれたし、歌も歌ってくれました。音大の声楽科出身なんですが、祖父や祖母と暮らしていたせいか、まだ三十代なのに昔の歌謡曲のこともよく知っているんですよ。残念ながら発売にまでは至りませんでしたが、その共同作業をきっかけに年の離れた彼女と結婚したんですから縁は異なものです。もしかすると「歌の力」というやつかもしれません(笑い)。

──『昭和歌謡替え歌70選』に合わせて《城東スタジオ/カストリ出版》からリリースされるオリジナル歌謡曲、「私いくつに見えるのでしょう」も奥様が作曲をされて歌も歌っています。詞に登場する女性のモデルは奥様なのですか?
 「私いくつに…」を作詞したのはだいぶ前のことで、当時通っていたスナックの女性がモデルです。話がいちいち歌謡曲めいていて、少し話しただけで必ず一つや二つは詞が作れてしまうという奇特な女性でした。突然店を辞めた時にはガッカリしたものです。しかしながら「私いくつに…」にあるような感情は水商売の女性だけではなく、あらゆる職業や年齢の女性に当てはまると考えています。いったん離婚した女性が年月を経て復縁する話で、歌の主人公は、ちょっと変わり者で身勝手なんだけど憎めない、そんな女性です。「さしご」さんの編曲もすばらしいし、レコーディングの環境も以前に比べてよくなったし、ようやく発売することができて大変うれしく思っています。

──最後に今後の意気込みをお聞かせください。
 替え歌については本のあとがきにも書いたように、「替え歌塾」のようなものを主宰して替え歌の楽しさを世に広められたらいいなと考えています。同好の士と発表会みたいなことができたら楽しいですね。どうですか、あなたもひとくち乗ってみませんか(笑い)。それから、これはたぶん実現できないと思いますが、「替え歌芸人」なんてのをプロデュースできたら最高に楽しいでしょうね。オリジナル曲の方では、玉の井や吉原を舞台にした娼婦物の曲を集めたミニアルバムを製作してみたいです。ジャケットも一応作ってね。さらには先の話になりますが、今三歳の長男が小学二年生ぐらいになったら演歌調の曲を歌わせたいと考えています。曲はもうできているんですよ。タイトルは「還暦土俵入り」といって、細川たかし、島津亜矢あたりを想定した還暦世代への応援歌なんですが、これを孫世代の男の子が歌うのも面白いと思いまして。音楽業界の方がこれを読んでいたら、ぜひ声をかけてください。曲には自信ありますから。とくにメジャーの方、大歓迎です(笑い)。

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